彼女は生きる手段を知らない

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ぼくは勇気を出して反論してみる。 「でも、そのヒヨコって子を、ぼくは全く知らないんだよ」 「ヒヨコじゃなくて、ひよ子。『ひ』を強く発音するのよ」 「美咲の友達って、変わった名前の人が多いよなぁ。『コトリ』だの何だの」 美咲はぼくを睨む。『コトリ』は美咲の短大時代の友達だが、今はもうこの世にはいない。ぼくは消え入るような声で「ごめん」と言ったが、美咲に聞こえたかどうかは、わからない。ますますぼく達の周りに嫌な空気がまとわりつく。ミルクティーとコーヒーから立ち昇る湯気のように。 喫煙席にすればよかった、とぼくは思った。 「ねえ、いいでしょ。『ひよ』と暮らせば家賃だって浮くし、料理も得意だって言ってたし、もう、ほんとに、言葉では言えないくらいすっごくいい子なの。きっとハギオにも、いい影響与えてくれると思うの」 家賃という(と、いうか金絡みの)言葉はぼくに物凄く罪悪感をもたらすための、美咲にとっての武器といってもいい。 つい最近、ぼくは勤めていた会社をクビになった。原因はぼくの無断欠勤だ。急に、会社に行かなくなってしまったのだ。『行けなく』なったのか、『行かなく』なったのか、それはぼくにもよくは分からない。前までは気にならなかった修復できるミスや、同僚とのちょっとした会話、上司からの軽い嫌味。スーツ、ネクタイ、パソコン、会議。それらがぼくにどう作用したのかは分からないけれど、ぼくは書類を作っていたときのパソコンの画面がフリーズしたときに、パニックに陥り、泣いた。大声で、泣いた。
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