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「ブリューゲルが、私の恋人なの」 その絵、「反逆天使の転落」は、 細部まで綿密に描き込まれた無数の魑魅魍魎が見る者を圧倒する、ブリューゲルの代表的な名画だ。 腹を膨らませたカエル、 苦悶するトカゲ、醜悪に誇張されムール貝の翼を付けたエビ、 奇妙に細長い腕のあるサメ、 歯を剥く異様な人面昆虫、 解体途中のような裸の鳥、 考え得る限りにグロテスクな結合を試みた寄せ集めのモンスター。 麒麟やぬえの比ではない。 恐怖と痛みに咆哮する、苦悶の アラベスク。いや、演出が過ぎて 滑稽ですらある。数え切れないほどの、想像力の魔宮。 しかし、美しいのだ。 愛着を込めて描かれた 怪物の個性が、魅力的に輝く。 丹念に練られた均等の取れた 醜悪さが美しい。 かつて神が振るったらしい 創造というの名の杖を、 十六世紀のフランドル画家は 絵筆に置き換える。 カンブリア紀の種の大発生も かくの如く。 勿論、主役の大天使ミカエルも 美しい。 ただそれは、対比の美ではない。 反逆天使の怪物達も、 正当な天使も、同じレベルで 美しく心惹かれる。 神の正義は美しく、 反逆者は醜い筈なのに、 画家が狙うべきであった コントラストは、画家自らの才能によって裏切られてしまった。 「ブリューゲルが怪物の造形に どれだけ入れ込んだかわかるな。天使もモンスターも 同じ土俵に立っちゃってるもの」 私がそう笑うと、 「磨知さん」 と言ったきり、 留美は目を潤ませて黙った。 「どうしたの?」 「よかった。気持ち悪い絵だ、って言われるのが普通なんです。 聖書を題材にした絵は、対抗する存在を恐ろしく醜悪に描くことで信仰心を促そうとしたので」 「でもそれがある一線を越えると、心が動かされてしまうのよね。 殉教者の絵も、必要以上に 残酷な表現をしてるじゃない? 血がだらだら流れていたり。 教会がそれを描かせたのは、 信仰者に畏怖と感銘を与えるためだったのに、そこから現代の私達が感じ取るのはエロティックな メッセージだったりする。 聖セバスティアヌスみたいに」 私も昔、遠い昔、絵が好きだった。それは描くのではなく、 もっぱら家にあった画集を眺めるだけだったけれど。
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