始章

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 城の後方に広がる緑豊かな森。今は潤いの季節ということもあり、そこは柔らかな生命に満ち溢れている。  色とりどりの花々が咲き乱れるその道を、イシュカはゆるゆると歩いていた。  簡素な作りだが、上品な藍色の装の裾が草花を撫でて行くのも気にせずに、辺りに漂う花の香に心地よさそうに目を細め。  有るか無しかの微笑を浮かべ、辺りを見回しながらゆるやかに歩くそのさまは、一見ただの気ままな散歩をしているように見える。  けれどその足どりは、ゆるやかなれどしっかりと目的の場所へと向かうものであった。  既に結構な距離を歩いた頃、彼女の前に崩れかかった建物が現れた。  それは時の無常を一体に表しているにもかかわらず、どこか荘厳な雰囲気を感じさせる建物である。もとは教会かなにかか、とにかく神聖な場所であったに違いないだろう。  イシュカは軽くそれを見上げたあと、中へは入らずに裏側へと回る。  そこにはかつては中庭だったであろう開けた空間があった。大きなだ円形のその中心には、崩れてはいるが噴水らしきものが見て取れる。  その空間の隅、ひっそりと佇む女性の像があった。  イシュカは風化したその像を一瞥すると、おもむろに像の足元を探り始める。  その手がやがて何かの感触を確認したとき、重々しい音が響き渡った。  彼女は微笑む。そして像の後方へ回ると、そこには地下へと続く階段が、うっそうとしたその姿を晒していた。  それを確認して、彼女はまた微笑んだ。  そして階段に置き捨てておいた松明を拾うと、同様に置いておいた燃焼石で火を点す。  果てすら見て取れない、不気味極まりない階段。微塵も恐れる様子もなく、イシュカはそこに足を踏み入れた。              何も欲しくはなかった。得たものを守れればよかっただけ。  それも叶わず、ただ虚ろな自分だけが溶け残って闇に囚われ。  死にたいのか、生きたいのか。  殺して欲しいのか、殺したいのか。  ただ、もう何も無い。  眼前に広がる闇のように。  嗚呼、しかし、それでも。  ……彼女が来た。
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