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日々は、どこまでも平淡だった。
とびきり喜ぶこともなければ、日が暮れるまで憂うこともない。
夢を食って生きる彼の望む、その欲は足ることを知り過ぎていた。
起きている間は、ひたすらキャンバスに向かう。
彼の、無きに等しい欲の全てはここに集合して、彩り鮮やかに塗りつけられる。
皮肉にも絵筆を握る右手に才能は通っておらず、白く折れそうなその腕には頼りない静脈の姿があった。
生計は、日雇いのアルバイトで立てた。
その殆どは肉体労働で、彼には向かないものばかりだった。
帰り道、くたびれた靴屋で働く娘が目に入った。
夕焼けをうけて、一層映える凜とした佇まい。
恋に落ちるのは一瞬だった。
それから毎日、彼は彼女の絵を描いた。描いては描いては靴屋の裏口に届けた。姿を見たのは1度きりのことであったが日を追う毎に彼女への想いは募り、世界があの日の夕焼け色に染まってゆくのを、確かに感じていた。
一方彼女は、毎日届く自分の絵に気味の悪さを感じたものの、次第にこの絵を届ける誰かに興味を持つようになった。
その彼の姿を一目見ようと窓から顔を覗かせる。
ぽつりと射す月明かりの下で申し訳なさそうに、彼は1枚の絵を丸めて裏口の前に置く。
明くる日も、明くる日も、申し訳なさそうに絵を置く姿を彼女はただ見つめた。
いつしか、彼が絵を届けに来ることを待つようになった。
そんなある日のこと。
靴屋の裏口に1通の手紙。
彼女から彼へ。
毎日届く絵のお礼と、彼に好意を持っていること、もうすぐ結婚すること。
その日を最後に彼は絵を描くのをやめた。
晴れた昼下がり、綺麗な花嫁姿。
彼女の視線の先に見慣れた背中。今日もただ、申し訳なさそうに。
呼び止める。
けれど彼女の声は底抜けの空を撃つばかりで、彼は振り向くことなく人波の中に消えてゆくのだった。
彼の、生まれながらにして失われた聴力だけが穏やかに2人を見ていた。
彼は、彼女の声を知らずして。
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