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「俺、佐藤。君は」
沈黙に困った先輩が、私に話しかける。
「私、岸田」
こんなに私は戸惑っているのに、普通にしている先輩はずるい。困らせたいし、困った先輩を見るのは楽しい。私、相当なひねくれ者だ。
「下は」
「よーこ」
水道につくと、先輩はすぐに蛇口をひねった。腕はまだ掴まれている。
「よっちゃん」
私は手に水をさらした。火照った体の熱が抜けていく気がした。
「君のあだ名」
にっと笑う先輩。淡々と会話が流れる。先輩、笑うと八重歯が見えるんだ。かわいいな。
「先輩のあだ名は」
片手でおでこにぴしゃぴしゃと水をかける。
「あ、君後輩なの」
「はい一応」
ぺっぺっと手を振って水をきると、蛇口をしめた。腕はいつまでこのままなのかな。
「佐藤、かな」
名字があだ名かと頭の中でつっこんだ。
「あ、ごめん」
私が腕を見ていることに気づいたのか、先輩はばっと腕から手を離した。そんなに急いで離さなくてもいいのに。
「好きです」
困らせたくなって、口から言葉が滑り落ちた。頭は混乱していた。
「なにが」
先輩が私を見る。きっと「私」をメモリーした。
「先輩のことが」
口が勝手に動く。
(私、好きなのか? 先輩のこと)
いやいや認めない。でも……先輩が私を好きっていうようなら、しょうがないよね。赤い頬を両手で隠して、先輩を見た。
困った先輩の顔が、今度は私を傷つけた。頬についた濡れた感覚だけが、私を囲んだ。
現実は、痛く厳しい。
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