-放蕩息子-

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  「喜市や。今日の仕入れ、ボクも付いて行かはってもよろしか?」 「はい?」 ―…時は流れ、明治8年の春。 帝都東京は日本橋の一角にある、老舗呉服屋『箕屋』 番頭台で帳簿の整理をしていた喜市は、西国訛りの口調で入ってきた意外過ぎる言葉に、思わず素っ頓狂な声を上げる。 声の主、彼の前に立ってニコニコと笑って立っているのは、『箕屋』の次男坊であり、別名『箕の放蕩息子』の名を持つ、今年で数え二十三歳になる飄々とした青年だ。 肌は白く、狐目。やや丸い輪郭の顔を包むように揃えられた流行りの『散切り頭』に濃藍の羽織と着物が印象的な彼は、一代にして莫大な富を成した呉服商『箕屋清太』の次男にして、箕屋三兄弟一の道楽者、前述した『箕の某(なにがし)』と揶揄される程の根っから女好きで、彼が起こした色恋における数多(あまた)の武勇伝は、東京では最早知らぬ者はいないとまで言われる程である。 そんな男の口から出た商い事に関する言葉。 喜市が素っ頓狂な声を上げるのも、傍からみればさもありなんと頷ける。 そして、それが喜市の顔からも伺えたのだろう。正次郎は口を僅かに『へ』の字にして彼に迫る。 「なんやの?卸店(おたな)の人間が、どへんな布を卸してはるのを確認するのが、そへんなに変なんか?」 「いや。そうではありませんが。」 「そやし、顔に書いてんにゃもん。『おかしなぁ』て。」 言って、子供の様に頬を膨らませむくれる正次郎に、喜市は慌てて両手を振る。 「いえいえそんな。ただ、今日はもう仕入れは終わってしまったので、正次郎様をお連れする事ができなくて残念だなぁと、思ったまでです。」 ※京都語解釈 どへんな…どんな そへんなに…そんなに    
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