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『商家とは言え京育ちの人間に、江戸の商いの何が分かる。』
まるで自分達の婚姻すらも否定するかのような清太の無情な言に、ハルは喩え様のない悔しさで唇を震わせながらも、素直にそれを受け入れた。
拒めば彼は、きっと自分と離縁する。
元々は傾きかけていた店を立て直す為、好みがあった親同士が勝手に決めた見合い結婚。
清太は自尊心の強い男で、見目が美しいハルにどこか劣等感…同業者に『獣と天女』と謗(そし)られるのが嫌でたまらなかった。
それ故に、夫婦の仲は徐々に冷めてはいった。
しかし、そこはやはり男と女。
ある日酒の勢いで清次はハルを抱き、自らの種を彼女に仕込んだ。
すると応えるように数ヶ月後、妻は懐妊。
十月十日後、次男である正次郎が産まれた。
男腹の良い嫁だと、親族からちやほやされるハルが益々気に入らなくなり、清次は俄然妻と距離を取るようになった。
それでも、彼女は手元で育てる事を許された正次郎。
乳母に預けられ、厳しい教育と折檻で、自分の元にこっそりやって来ては涙を流す正一郎の為にも、清太の妻でいた。
子供だけではない。
清太と離縁し実家に戻れば、出戻り娘がいると知られれば、狭く体裁を気にする京だ。
実家にいる下の弟妹の縁談にも弊害が出る。
相談できる相手すらいない江戸で、ハルは全てを抱え込み、正次郎に笑顔を見せる回数も少なくなった。
四畳半の布団部屋の隅に蹲り、声を殺して泣いていた母の姿を、幼い正次郎は障子の隙間から何度も目にしていた。
そうして過ごしている内に、当時不治の病と言われていた『労咳』が江戸で流行りだし、心身共にに弱っていたハルは、真っ先にその毒牙にかかった。
彼女の実家からの援助により店も持ち直し、正一郎も成人を名乗るには充分な15歳になっていたので、清太は病んだハルを早々に見限るかのように、実家で養生しろと、遠回しではあるが冷たく言い放った。
長男さえ無事なら後はどうにでもなれとまで思っていたのか、清太は『正次郎だけでも』と懇願するハルの意見も易々と呑んだ。
江戸産まれの正次郎の言葉使いがどこか京訛りなのは、この頃の影響である。
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