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情報とは単に総称的な意味合いを持つ言葉だが、
その情報とはどういった存在なのだろうか。
こうやって文章を読む事が出来るのは、脳内で眼から入った信号を処理しているからなのだが、
今触っている携帯でQRコードを読込む際も
基本は同じ様な手順で処理が行われている。
違いは、自立的かどうか
脳を持つ有機生命体、特に知能の高い生き物なら
単に情報を処理する事も経験や経緯、イメージや気分などの状況を踏まえ独自の判断で処理される。
携帯に気分など無いしイメージなど携帯自身は持っていない。
進んだAIなら自立しているように見えるが、現段階では、計算された行動、理にかなう行為しかとらない。
矛盾した行動はとらない。
人間であれ犬であれ、時に矛盾した行動に出る場合がある。
感情があるからだ。
だが、それでも
その行動ですら高度な情報処理だという考え方がある。
そう考えると最初に分けた『自立的』と言う分岐点が、ただの高度かどうかの違いにしかならない。
感情ですら、情報処理された結果だというわけだ。
最近では映画やアニメ等で、全ての存在は情報であると言うセリフが聞かれる。
実際生き物もDNAというプログラムによって存在する。普段目にする携帯の画面もプログラムによって構成されている点では、我々人間も変わらない。
我々も有機とは言え、基本は炭素で構成され、無機質の鉄やリンなども含まれるわけで、逆に有機物を使って作られた機械も存在する。
では、人間と機械は能力に違いは有れど、
同じ処理を行う同じ情報によって存在するものなのか、
眼に見える存在も粒子・原子で構成されている。
これを一つの情報の塊ととらえてみる。
私達が頭の中で思い浮かべる想像も携帯やパソコンのデータも
情報でしかない。
存在自体は物質と電子信号の違いはあるが、電子信号も電気、光などの粒子が働いている。
これらに基き定めるなら全ての存在は情報によって構成された存在と言える。
やはり情報は存在自体、不確定で単なる言葉でしかないのだろうか。
人間が存在してその意味をなす、不確定な存在こそが情報だと言えるのかもしれない。
例えるなら幽霊や神様の様な存在だ。
我々は存在を否定すると共に肯定している矛盾な存在なのだ。
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