愛しい光が消えるとき

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 騒音が溢れる世界から切り離された、淀みの無い空間。静けさの中で耳を澄ますと、彼女の息づかいがせせらぎのように聴こえる。 足音を控えて近づく私が見ているのは、瞼を閉じたままの石川さんの姿。 近頃は人の気配があっても目を覚まさない事が増え、カルテの記録を見ると、一日の覚醒時間は日を追う毎に短くなっている。 御主人から転院の話を聞いたのは三日前。名取先生が約一ヶ月の余命宣告した日から、三週間が過ぎようとしている。 ここまで命を繋いでいるのは、奇跡と言っても過言ではない。血液データーは多臓器に渡ってパニック値(著しい異常値)が並び、肝臓に於いては、全くと言って良いほど機能していない状態。数日前と比べても黄疸は全身で色を深くし、衰弱による倦怠感で今では自力で腕を持ち上げる事すら難しい。 「……石川さん」 思いを晴らす術の無い私は、眠る彼女を見つめながら小さな声を漏らした。 彼女の転院は二日後の午後3時。その日の私のシフトは夜勤明け。一旦帰宅してからユリさんと合流し、介護タクシーで出発する彼女を見送る予定でいる。 あと二日……、もう二度と彼女に会うことは出来ない。 笑顔で見送った後は離れた場所で、しかも一日、二日が経ってから彼女の永眠を知らされるだけ。 入所施設によっては、告別式も終えた数日後に一枚のファックスが連携室に届く。それを見た瞬間に襲われる虚無感を想像すると、胸を突かれるような深い悲しみが湧く。 「……」 やるせない気持ちに囚われながらふと視線を上げると、ブラインドの間から茜色に染まった空が見える。 ほのかに入り込むオレンジ色の光線は床頭台を照らし、二つ並んだ写真立てを浮かび上がらせている。 写真の中で笑みを浮かべる親子。彼女の病と向き合う事で取り戻した、家族の時間と絆。 その掛け替えのない時間が少しでも続くのならば、私の感情など取るに足らない我が儘。自分の役目を全うし、悔いを残したくないと言うだけの稚拙な願望。 ……そうだと自分に言い聞かせる度、悔しさで目頭が熱くなる。グッと涙を堪えて鼻を啜ったその時、 「櫻井さん……」 無音を割ったのはか細い声。肩が跳ねるほどに驚いた私は、視線を急降下させる。
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