愛しい光が消えるとき

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「櫻井さん。それは私が引き継ぐので、早く石川さんのところに行ってあげてください」 処置室で点滴の準備をする私に後輩が声を掛けた。現在私が対応している患者は、早朝に腹痛、嘔吐、発熱の症状で救急搬送された50代の女性。採血と腹部CTの結果で憩室炎(大腸の炎症)と診断され、禁飲食と点滴治療、大腸カメラ検査の目的で緊急入院が決まった。 「……でも、私が抜けたら人手が足らなくて困るでしょ」 石川さんの急変を知らせる電話が入ったのは約一時間前。病棟スタッフの一報によると血圧は60台に下降しており、意識レベルはⅢ-300。つまり、痛み刺激に対しても反応が無いと言う。 この手を止めて、今直ぐ彼女のもとへ駆け付けたい。そんな思いに駆られるけれど、外来業務を中途半端にして石川さんのもとへは行けない。 「まだ大丈夫。あの患者さんを病棟に上げたら抜けさせて貰うから」 まだ大丈夫と言える根拠など何もない。けれど、やっぱり持ち場を離れる訳には…… 急かされる感情を必死に抑える私は、気遣いをしてくれるスタッフに笑みを向けて作業を続ける。 「……今、石川さんの最新記録を見ました。血圧とサチュレーションはモニターで測定困難。心拍は既に30を切っています」 後輩は私の動作を止めるかのように腕を掴み、周囲を気にしながら声を潜める。 「えっ……」 「本当にここは大丈夫ですから。……急がないと、もう会えないかも知れませんよ」 悲痛な思いに顔を歪める後輩。 まさか……血圧低下が起こって未だ二時間も経っていないのに…… 耳打ちされた言葉に愕然とする。血の気が引く感覚に襲われた瞬間、頭の中で否定したい現実が映像となって浮かぶ。 まさかじゃない。石川さんの状態なら十分考えられる。数時間は低空飛行を続ける患者さんが多い中、彼女の体にその余力は無い。心臓が肺を、肺は心臓を道ずれにして一気に急降下する。 それを覚悟していた筈なのに…… 絶望と焦燥に煽られて、心臓が不快な早鐘を打ち始める。 「……ごめん、私、行ってくる」 無意識に震える声。 「行ってください。早く!」 背中を押して急かす後輩。彼女に仕事を任せた私は、その顔を引き攣らせたまま処置室から飛び出した。
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