愛しい光が消えるとき

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 水瀬さんから出棺の知らせが来たのは、予定通り二時間後。私が日勤者への申し送りと、師長へ諸々の報告を終えた午前9時頃だった。 外来業務を片付け一階の霊安室に下りると、屋外では既に葬儀社の迎えの車が待機していた。 おそらく今後の打ち合わせをしているのだろう。業者スタッフと息子さんは、駐車場に続く扉の外で立ち話をしている。 御主人は…… 気に掛けて霊安室を覗く。 すると、ストレッチャーの横に置かれたパイプ椅子に腰掛ける御主人さんの姿があった。白布で顔を伏せた妻の横で、背中を丸め微動だにしない彼。 その後方の壁側には水瀬さんが立ち、静かにその姿を見守っている。 空気の音がジーンと聞こえるような静寂。 この状況で、悲しみに打ちひしがれる彼に掛ける言葉は見つからない。慰めの言葉など要らないと、そっとしておいて欲しいと……項垂れる姿が、私達との間に境界線を引く。 私の存在に気づいた水瀬さんは、小さく頷いて私に合図を送った。敷居を跨ぐ前に一礼し、水瀬さんのもとへ向かう。 「名取先生、他の患者の処置が長引いて遅れるみたい。到着できないかも知れないけど、予定通りお願いって」 彼女は隣に立った私に顔を寄せ、御主人に気を配りながら耳打ちをする。 「そうですか……」 何十人と受け持っている先生だから仕方のない事。けれど、乳癌を診断して今日まで診て来た患者を送り出せないのは、名取先生も心苦しい筈。 あと5分……何とか間に合ってくれたら良いけど……。 掛け時計で時間を確認した私は、小さな息を吐いて視線を戻す。その際、ほんの一瞬だけ彼と目が合う。 「……佐代子は、最期に何を思っていたんでしょうね」 まるで独り言のような声を漏らした彼は、それだけ言って石川さんへと顔を向け直す。 「……」 「結局のところ私は、妻に何もしてやれなかった……今日まで、何も……」 途方に暮れる彼は、力の無い声を繋いでいく。表情までも失ったその姿はまるで抜け殻の様で、そのまま倒れてしまうのではないかと不安になる。 「何も出来なかったなんて、そんな事はありません。石川さんには――」御主人さんの想いは伝わっています。と、そう伝えようとした時、 「……ただ、無念です」 掠れた声を落とした。
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