第五話

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   この術、ディナイはさしずめ、気配を閉ざした闇の塊に変身する魔術。奴からすれば黒い霧が固まって俺の姿を隠してしまったように見えたことだろう。  かつて、挙動不審だったハールムゥトを疑った俺が、彼女をストーキングするために爺ちゃん(師匠の方)の呪文書から引っ張り出してきた魔術である。  効果は気配を完全に断絶すること。術者自身が発する、匂い、音、第六感的な気配まで全てを展開したフィールドから外へ漏らさないと言われている、隠密用の便利魔術。  ただ、光すら外へ出さず、傍から見ると真っ黒な塊に見えるため、夜間や暗い場所でも無い限りは位置がバレバレ。つまりは真夏の太陽の下に現れた黒い結界の中に、俺は身を隠したのだった。 「ヘンテコなことしやがってぇ!」  日中で、隠密目的でないとは言え、この術が持つメリットは大きい。  俺は外部の光景をちゃんと眺めることができるが、向こうからは俺の行動がまったく見えないのだ。一対一での状況ならば、それなりのプレッシャーを作り出せるはず。  そして、たとえ小規模でも相手の視界を奪っている状況。  そしてそして、セルゲイ選手は物事を深く考えないタイプに見える。 「ふぬぅ!」  数瞬の間、こちらの様子を見るように立ちすくんでいたセルゲイ選手だったが、すぐに奮起して地面を蹴った。  正解。俺のこの術は一切の物理作用を生み出さないため、これによって彼をリング外へ突き落とすのは不可能。短慮そうに見えても、大男の、小細工を意に介さない精神力は俺に無い長所だと思う。  ただし、愚直な性質は場合によって短所ともなりえるかもね。 「なんだぁ、こんなもんっ!」  突進してきた相手は、日中に浮かぶ闇一色となった結界の中へ腕を差し出してくる。  その頃には俺も、次なる呪文が完成していた。  これも風乗りと同様、シャムリーロッテがかつて使っていた便利魔術。 “不出来の千里眼” 「“MarkSight”..」  半年前、ダイムの怪物と呼ばれる凶暴な魔獣が街に現れたことがあった。マークサイトは、礼拝堂に潜伏したその魔獣を、魔女が外から監視する目的で使用した術である。  その効果は、術者が記憶した景色の映写。  セルゲイがこの呪文を知っていることは考えにくいが、しかし奇跡的に知っていたとしても問題はない。存在否定中の俺の声や行動が奴に漏れることはないからな。  
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