430人が本棚に入れています
本棚に追加
「……何してるの」
彼女は真っ黒に染まった奈落の穴で力の首元を見据えた。
千代の包丁の先は首に刺さるか刺さらないかの所で止まっていた。千代自身も驚いた表情をしていて、自分が何をしているのかわからない風だった。
千代は慌てふためき、手を動かそうとするが、包丁の先が首に当たるところまで、動くことはなかった。
「ど、うして……何で刺さらないの？」
感情の篭らない無機質な口調で自問するがわからない。
その後すぐに気付いた。彼女が自分のことを見下すように冷たい瞳で見下ろしているのを。
――ああ、早くしないと。
――楽になれないよ。
――彼女を怒らせちゃう。
千代は必死に動かそうとするものの、自分の手は意思とは逆に上へと上がっていく。まるで、包丁が首に刺さるのを嫌がっているようだった。
「楽になりたくないのね？」
「違うのよ！ 手が、手が動かないの！ 首に刺さってくれないのよっ！」
千代は泣き叫び、大きく否定した。だが、それでも尚、彼女は冷たい視線を千代に送り、黒い瞳から魔を送っていた。
――怒ってる。怒ってるよ。
――早くしないと、早く早く。
――死なないといけないの！
千代は思わず泣いていた。死にたいのに死ねないから。この苦しみから解放されず、今も言いようのない不安が身を包んでいるから。だから早く死んで、それらを脱ぎ捨てたかった。
「何で動かないの！？ 私は死にたいはずなのに。死にたいはずなのにっ！」
千代は意思を無視した体を無理矢理動かそうとするのは止めた。すると、何か縛りから解けたようたように手は急に動き、包丁を足元に投げ捨てた。
「……どうして？」
千代は目を腫らし、泣いていた。
最初のコメントを投稿しよう！