四月

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「例えば」  そう彼女は微笑んで呟く。 「人は何故働くと思います?」 「やりたい事をできるようになる為じゃないのかな?」  私は何の気なしにそう答えた。診療室の白いカーテンが、初春の澄んだ風にたわんでなびく。  彼女は小さく微笑んで首を横に振った。彼女の細くて多い肩程までの黒髪が、重たそうに揺れる。 「働いていってもなかなかやりたい事はできないものですよ」 「そうかい? 僕はわりかし今の生活に満足しているけど。やりたい事もそれなりにできているしね」  彼女は常の取って付けた様な無機質な笑みを動かす事なく、ただ数回まばたきをした。 「なら、先生は幸せな方ですね」 「そうかな。実感がないよ」  すると彼女は可笑しそうに笑って──それもまた彼女の常の取って付けた感の否めないそれではあったけれど──小さく首を傾げた。 「やりたい事はできてるのに、幸せだとは言い切れないのですか?」 「まあね。まだやりたい事はあるわけだし」  そう答えて僕はつい苦笑してしまった。田舎の小さな精神科は、決して繁盛する訳ではないけれども、これでは彼女と話ている内に日が暮れそうだ。とは言ってもそれはいつもの事だし、そもそも彼女は私に診察らしい事をさせてはくれないのだ。質問をするのは大体彼女で、僕が主にそれに答える。まるで立場は逆だけれど、致し方のない事ではあった。こういう事はお互い話して行って距離を縮めなければ始まらない事であって、今はまだその最中なのだ。彼女が通う様になってかれこれ半年は経つのだけれど。 「ということは、先生はまだ満足してはいらっしゃらないのですね」 「まぁ、そういう事になるかな」 「そう」  彼女との会話はいつもこの調子で終わる。気分屋な彼女の話は酷く奔放でとりとめがなく、しかしどこか興味深い。 「どうしてそんなことを聞くの?」 「やっぱり私は思う所には辿り着けないという証明をしたくて」  彼女はそう言って小さく笑う。こうやって後ろ向きな事を言う時の彼女の表情が、僕には最も生き生きして見えるのだった。 「それはどうして?」 「得たい物はとめどないのに、私に与えられた時間も何もかもが有限だからですよ」 「何を得たいの?」 「全てを」  彼女はそう言って風に乱された髪を小さく整えた。僕は小さく笑って、カルテをデスクに手放した。
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