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2 櫂(かい)を捨てなさい
パパジ
「私」の源を見いだしなさい。その位置をつかみなさい。ひとたびそれがどこにあるかを知れば、そこにたどり着くための最善の道を見いだせるだろう。空を行くか、海を渡るか、陸地を行くかを決める前に、旅の目的地を知らねばならない。目的地までの距離はどれほどなのか。出発点はどこなのか。この二つの点が明確になれば、旅の道程を決めるのは簡単だ。
さて、この「私」はどこにあるのだろうか? 身体から見てみなさい。身体の中で誰かが「私」と言う。一生の間、あなたはこの「私」という言葉を使っている。この「私」はどこにあるのか? それはどこに位置するのか? まずそれが、私は目覚め、私は夢見る、私は眠る、という三つの状態すべての中に存在していることに気づくだろう。だが、実際にはそれはどこにあるのか? その住処はどこなのか? そしてその住処を見いだそうとしている人、その人はいったい誰なのか? この人はどれほど遠くにいるのだろうか? もし目的地、探求の目標が「私」であるなら、その「私」はどれほど遠くにいるのだろうか? これが明確にされなければならない。
探求者は探求を通して何を探しているのだろうか? 探求をしている人とは誰なのか? これを確認しなさい。探求者がいて、探求があり、探求されるものがある。まず探求をしたがっているその探求者とは誰なのかを見いだしなさい。これが最も重要なことなのだ。
質問者
(ニュージーランドから来た、先ほど大笑いをした男性)それはあたかも存在が認識を求めているようなものです。
パパジ
(笑いながら)そのとおりだ。
もう少しだ。非常に近い。なぜなら、あなたはそれがただの認識だと理解したからだ。
質問者
それはみな広大な空なる空間から立ち現れ、それからその中に消え去るようなものです。
パパジ
探求があるのはまだ認識が確立されていないからだ。探求者は探求を通してゆっくりと認識に向かう。それは自分自身を鏡の中に見るようなものだ。あなたは鏡を見、自分自身の反映を見て、自分自身を認識する。ひとたび自分自身を認識すれば、鏡を捨て去ってもかまわない。探求を投げだしてもかまわないのだ。探求すべき何かがあるという概念を棄て去りなさい。
認識の中に、認識をする人は存在しない。だが、誰もそのことを知らない。遥かな昔から、誰もが瞑想の中で座りつづけてきた。
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