生と死 または、愛と渇望

7/7
前へ
/15ページ
次へ
 学校の自転車駐輪場と書かれてはいるのだが、少しだけ朽ち果てられた看板の近くに近寄り着き、自らの降りながら機械を止め、鳴り止んだ学内との賑やかさとの対反に位置していると言っていた自己の胸の高揚と高鳴る鼓動に一種の新鮮感を、同時に、唖然とするや否や、校門前から見掛けていたと言われ、振り返った。 「おはよう。昨日のビートラグを見たかい」 「やあ、もちろん見たよ。特集号だったねえ」  櫛沢誠の姿を見つけた。その薄暗いふたりが語る雰囲気の会話の中心人物は、今朝方から流し聴いていた、それは先々週末のこと。耳障りにも深夜の、流れ鳴っては、嫌々ながら聴いていた、NIRVANAと呼ばれるらしき或る海外バンドの、あめりかは、しあとる、その出身の歌とぎたぁをしていた……云々、とかなんとやらと、そして最後に中心人物であったカート・コヴェインと言われる者の少しの話しで終わったが。昨日発売していた、ビートラグと言う雑誌、音楽記事にカタカナ語が多くなってきたな、と思っては、目に止まったその刊行、なにやらその者、この当時より、世界中の若者達(ロストジェネレーション~lost generation Age~失われた世代)から渇声の歓喜を生のまま代弁し歌い上げる、早々とその世代達にスターダムを駆け上がっている。と書かれ、大いに受けられていた様子だった。だがその反面苦肉にも汚らしい、その罵りの如く見慣れない酷い記事の活字に異様な興奮も、また同時に覚えていた。  可笑しな時代だ、と、このとき唯、無表情に笑っていた、その様に覚えている。  1992年末、冬。
/15ページ

最初のコメントを投稿しよう!

24人が本棚に入れています
本棚に追加