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 祖父は、成人して間も無く親を亡くした。先に父が病死し、母はそれに耐えきれず後を追ったという。残ったのは家と金、それに裏の池だった。  兄弟の無かった祖父は、肉親を一度に失って酷く落ち込んだ。親戚付き合いも浅く、親しい友人も無く、死人の如く生きていた。死人ならまだ始末が良い。生きているから悲しい、空しい。どうせ意味無き余生なら、自分もあちらへ行けば良い。  そう結論付けたはいいが、いざ剃刀を手首にあてても、引く直前に怖じ気付く。それなら首を吊ろうとしたが、足が震えて蹴りがつかない。未練は微塵も無い筈なのに、まだ死に臆する気持ちがある。かといって、生きていたとて何になる。  思い悩んだ末に、祖父は亡父の遺した酒を抱き、池へ向かった。酒で勢いを付け、入水を目論んだのである。  草履も履かずに縁側から下りると、外は夕暮れであった。鈴虫が鳴いていた記憶があるという。瓶の口を含み、ひたすらに飲んだ。頭と足がぐらついた頃合を見て、すわ飛び込まんと池に臨む。ところがやはり蹴りがつかぬ。酒が足らぬと再度飲む。そんな事を繰り返すうちに夜になり、空と水面に月が出た。凛と澄んだ満月であった。すっかり酔った祖父には、水面のそれが、彼岸への入口に見えたという。  滑らかに、僅かな風に揺らぐ艶やかな月の影。  あれになら、飛び込んだとて辛く無かろう。  祖父はふらりと立ち上がり、池に足を踏み入れた。不思議と冷たくはなかった。そのまま深みへ深みへ、月へ向かって歩みを進め、まさに飛び込むように水面に倒れ込んだ。  推測通り、息の出来ない辛さも、死の恐怖も無く、むしろ水の感触が心地好かった。まるで母の腕の中、乳房に顔を埋めたかのような幸福感が祖父を包み込んだ。このまま抱かれて眠ってしまえば、本当に母に会える。父にも会える。そんな希望に満ちたまま、祖父は意識を手放した。
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