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しあわせになろう。
少女はそう言った。
彼女が笑うためだったら、どんなことでもできると思った。
だから彼は約束した。
幸せになろう。
ずっと、一緒にいよう、と……。
けれど。
しあわせを、求めれば求めるほど、感じてしまう。思い知ってしまう。
この身は、闇に穢れているのだと。
*
西の尾根が赤く染まり、東の森から夜が忍び寄っていた。風に薄くのばされた雲が、太陽の残照と、月を包む漆黒の両方を浴びて、昼と夜の境目をあいまいにしている。
路傍では、長い冬の間、ひっそりと雪に抱かれていた緑が、ようやく芽吹きはじめたところだった。
凍える冬は終わりを告げ、閉ざされていた春が解放されて間もない。
春の女神がその息吹を感じさせるのはもっぱら昼の間で、早朝や夜になると未だに気温はがくっと低下していた。
町外れの垣根に、寄りかかって空を見上げていたレインは、真新しいコートの襟元をかきあわせると、ほ、と息を吐いた。外気に触れた息は白く染まり、黄昏時の空気にふんわりと溶けて消える。
退屈そうに視線を巡らせれば、家の玄関窓からこぼれ落ちる、暖かそうな光が目に入った。
「だから、次は昼に来て下さいと言っただろう」
先ほどから、樫の扉ごしに言い争う声がもれ聞こえている。
家は町のはずれにあって、近くには他に住む者もいない。だから声の主は誰はばかることなく、荒々しい態度を今宵の客人にぶつけているようだ。
だいじょうぶ、かな。
垣根によりかかったレインの瞳に、案ずる色がかげろった。
室内を照らすランプの灯りを受けて、稲穂色に染まる玄関窓。そこでは、二つの黒い影がもみ争うように揺れている。
「昼は、用事があって……」
先ほどの荒々しい声とは対照的に、静かな低い声にレインは耳をすました。
客人の、どこかはっきりしないその態度を、相手は鼻で笑い飛ばす。
「いったい、なんの用事だって言うんだろうね。聞くところによれば、あんたは昼の間、宿屋からちっとも出てこないそうじゃないか」
「それは……」
「吸血鬼でもあるまいし。嫌だよ、そんな得体の知れない男に家を売るのはさ。しかもあんた、無職なんだろ。代金踏み倒されでもしたら、たまりゃしない。ほらほら、とっとと出て行った! どうしてもと言うんなら、他を探すんだね」
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