伝播する闇

心の傷

「疲れたな……」

口をついて出てしまった言葉に、前の席に座っている女の人の口が、微かに笑みを浮かべたのが見えた。
俺は手すりにもたれていた体を正して、空咳をした。

あたりを見回すとさっきの言葉に気づいたのは、目の前の席に座っている女の人だけだったようだ。
彼女がどんな人か観察しようかと思ったけど、やめておいた。
まだ笑われていそうで怖かったからだ。

つまり今は彼女を見てはいない。
俺は、さっきの一瞬の視覚情報から目の前で笑っていた人が、女の人であろうということを認識しただけだった。
今は、わざとらしく横を向いて車内の様子を見ていた。

左側にはさっきの俺と同じように、手すりにもたれかかって寝ているおじさんがいる。
頭の毛が薄くなっていた。
彼もまた俺と同じように疲れているのかも知れない。
まぁ、実際は現代社会で生きている人間の中では、疲れていない人を探すほうが難しいのかも知れないけど。