森の静寂

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 蝉の声が響いている。鬱蒼と繁る木々の隙間に覗く空はどこまでも高い水色だった。獣道と呼ぶに相応しい、およそ人間の通るべきではない道。緑の深いその道を一人の少年が歩いている。  少年の名前は幹也。黒いティーシャツにナチュラルジーンズ。髪は無造作な形に掻き上げられている。何かの枝に引っ掛けたのだろう、幹也の右頬には小さな傷があった。  幹也は足を止めた。今まで獣道を歩いていたのが突然広まった場所に出て、安心感を覚えたからだ。 「疲れたなあ。この森がこんなに広いなんて思わなかった」  蝉の声は幾重にも響くが、幹也にはそれが寂しく、また静かに感じる。というのも蝉の鳴き声すらこの深い緑の森に溶けているように感じるから。どんなに大きな声で鳴こうと、どんな数の声があろうとそれは変わらない。  この森は幹也の家の裏手に広がる森で、過去一度として幹也はここに踏み入ったことはなかった。それは幹也の祖母が、 「この森には鬼が住んでる。だから決して入ってはならない」  そう言ってはいつも幹也が森に入らないようにと気をやっていたからだ。  そんな祖母も去年の暮れには他界してしまった。祖母を失った悲しみが落ち着いた頃から、徐々に幹也の好奇心は高まっていった。そしてついに幹也はこの日行動に移し、荷物一つ持たずに森へ勇み足を決め込んだ。 「誰ですか? そこにいらっしゃるのは」  不意に誰かに声をかけられて、幹也は驚いて顔を上げた。 一つ二つ茂みを挟んだ向こう側。そこには一人の女性がたっていた。深く黒く長い髪。目鼻整ったとても美しい女性だった。女性はずいぶんと立派に見える紅の着物を着ていた。  友禅などと言っただろうか。眉目秀麗と言うのだろうか。これは何かの運命と言うのだろうか。幹也の頭の中に沢山の考えが巡り、何かを言わねばという思いを翻弄する。 「どなた?」  女性は今一度問う。不思議そうに。いや、悲しそうな、寂しそうな、不安そうな、何かを期待したかのような。そんな幹也が今までに一度も見たことのない表情で再度問い返してきたのだ。
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