八幕 伝之介の部屋~貧乏長屋

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  「しかし、今は……その」  おフサは視線を外し、言い難そうに顔を曇らせてわずかに片足を上げて見せた。  自分の無思慮に愕然とした。先のことばかりあれこれ考え、簡単なことを忘れていた。 「すまない。けがをしていたのだったな。つい失念してしまった」  とはいえ戻ろうにも長屋からは結構な距離を歩いてしまった。とてもではないが籠を呼ぶ金はない。となれば話は早い。我慢して歩かせればいいだけだ。それくらい耐えなくて、侍の妻になれるはずはない。  ため息をついて懐から手拭いを取り出し、ほっかむりに被る。知っている者にはこれだけでわからなくなるということはないが、少なくとも人目を忍ぶこちらの事情さえ伝わってくれれば、なにも非難を受けるようなことはならないだろう。 「やはり私は向かないのだ。侍などには」  物心ついたときには家職を失っていのだから当然だ。手拭いを顎の下でしっかりと結ぶと、おフサの前にしゃがみ込んだ。  おフサは戸惑い、遠慮して後ろへ下がる。当然だ。武士である亭主が妻を、妻になろうとする人間をおぶるなど言語道断に違いない。 「構わぬから」  絞り出すような声で言う。  お互いに見られた状態でないことはわかっている。だからこそ早く済ませてしまいたい。その気持ちは通じたようだ。 「それでは、失礼して」  どうせ全部預けてしまうのに、遠慮がちに遠慮がちに体を乗せてくる。元が狐だからか、驚くほど軽い。背中に直接上体を任せるのでなく腕を挟んでいるものだから立ち上がるだけで落ちそうになってしまった。 「もっとしっかり掴まらねば危ない」  けがをしているのだから、危ないのだから、仕方ない。そんな風に自分を納得させるしかない。  おフサは今度は無言で首に手を回してきた。指先に下がる履物がぶつかってからりと音をたてる。 「では走るぞ」  たてた誓いの確かさに一抹の不安を感じながらも、背中にかかる重みと責任感で身の引き締まる心地良さを感じていた。  野を出て人の暮らしに紛れ込もうという狐に、できれば楽しい思いだけをさせてやりたい。人とはこんなに素晴らしいものなのだと、そう信じさせてやりたい。そんな風に思った。  
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