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夜もすっかり更けて聞こえた戸を叩く音に、大事に飲んでいる酒入りの壷にしっかりと栓をし視線を送って部屋の隅に頼りになるものを探した。そうしたところで見つかるのはろくに手入れもせず打ち捨てられたように転がる大小だけで、押し込みから身を守るにはなによりそれだけの腕がない。
急ぎの用向きでさえなければ後日に見送る時間だが、こんな貧乏長屋に強盗もないだろう。
安酒でだらしなく弛緩しているはずの面の皮を一度はたき、しゃんとさせてから草鞋を履いて土間に下りる。わずか三畳の部屋では畳の上で寝転がったまま届きそうな戸を開けるにはもったいぶっていると思われても仕方のない間だ。
咳払いをしながら破れ障子の戸を開けると、そこに立っていたのは若い娘だった。年の頃は十四を過ぎた頃か、暗がりにもそれとわかる美人だ。細い顎に小さく閉じた口元。長い睫毛が恥ずかしげに伏せられている。
客などないのが常のこの時間の、それもこんな貧乏長屋の浪人に何用かと思ってはいても驚いて声が出ない。酒で湿っていたはずの喉が渇ききっている。もっとも声が出たところでなんと声をかけたらいいのか見当もつかない。
言葉を迷っていると、娘は辺りを気にするように左右に目をやった。嫁入り前の娘であれば、こんな夜更けに男の部屋を訪ねるのを誰かに見られでもしたら事だろう。
自分の無思慮に思い当たり、身を引くと娘は小さく頭を下げすっと部屋に入ってきた。そのまま横を抜けて土間の中央に立つ。娘から放たれているのか、若草の臭いが鼻腔に届いた。こんな夜更けに、男と女がひとつ部屋にふたりでいるには不似合いな爽やかな匂いだ。
一応表を気にしてから戸を閉める。幸い人はいなかった。娘の方にも事情があるだろうが、もし近所の者にでも見られていたら明日には長屋中が大騒ぎになっている。貧乏浪人の所へこんな美人の客など、珍客ですらある。
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