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おかしな話に拍車がかかってきた。単なる自惚れの思い違いでなければ、この娘に想いを告げられたようだ。紅潮する伏せた顔すら見ているのははばかられるように感じて朝日を反射する水面に視線をやった。
狐の姿であったなら笑い飛ばすこともできたろうが、娘の姿でそんなことを言われてはこちらもたじろいでしまう。こういったことには慣れつけない。
「今の話を聞くと、君がまるで私をその、好いているように聞こえるのだが」
「これ以上口にはできませぬ。野暮をお言い下さいますな」
膝に置いた手がきゅっと握られる。狐にも恥じらいがあるのだということは重々よくわかった。
「こうして人の姿をして押しかけましたのも、貴方様に私の全てを捧げる覚悟があってのことでございます。例え貴方様が私を今宵には鍋に入れてしまうお心でいたとしても、本望でございます」
娘、いや、狐の言葉を聞きながら、私はひとつのことしか考えていなかった。
「君、名前は無いのか」
「群れの中で私を呼ぶ時には、ただ“コ”と」
「それではいささか不自然だな。よし、なにか好きな食べ物はないか」
「この時期ですと、畑から失敬して頂く生米などが好物でございました」
稲。イネ。去ね。音がよくない。見渡す限りに畑は見えないが、わずかながらススキの穂が稲のように頭を垂れている。ぽんと手を打つ。
「よし、では君の名前はフサだ。おフサと呼ぶことにしよう」
「昨晩は“ホイミン”と呼んで頂きましたが」
酔っていたのでまったく憶えていない。
「フサ……私の名前。嬉しうございます」
おフサは大事なものを抑え込むように胸に手を当て、何度もできたばかりの新しい自分の名前を繰り返した。腰の後ろに一瞬、なにやら名の通りふさふさしたものがちらついて見えたが目をこする間に消えてしまった。
「嬉しいのですが、どうして私に名を」
答えようとして、言葉が詰まった。勢いづけに、川下に足を向けて歩き出す。
「一緒に暮らすのに名が無くては不便であろう」
息が止まり、立ち上がって頭を下げるのを気配で感じた。
後ろをついてくるまでゆっくりと歩を進める。これからのことを考えるとあまり苦ではない、不思議とそう思えた。
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