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「失礼するよ」
破れ障子を開けて長屋の女が入ってきた。おサキだ。長屋一番の大声の持ち主で、隣の団吉の妻だ。いつも通りなら膳を下げに来ただけだが、意味ありげに笑んでいることからして今日は別の用件もありそうだ。
「ありがとうございました。大変おいしうございました」
土間に下りたおフサが膳を渡してくれて、礼の言葉を述べぺこりと頭を下げた。おサキは面食らった顔をしてから豪快に笑った。笑い声で安普請の天井や壁が揺れるように錯覚する。
「そんな『おいしうございました』なんて言われるような上品なものは作っちゃいないよ! それにしても綺麗に食べてくれたねえ。さすがお侍の嫁になろうって女は違うや」
「食い意地が張っていて、お恥ずかしい」
おフサも合わせてころころと笑う。このまま女の長話が始まってはおフサには負担になるだろうから、こほんと大きく咳払いを響かせた。
「それで、なにか話があるんじゃないか」
「ああそうそう、大家が……なんにも言わないけど多分待ってるよ。よせばいいのに誰かが伝えたらしくておフサさんのこと耳に入ってるみたいだよ。あの人はもうきっと祝言取り仕切る気でいるね」
大声で騒ぎたてていればわざわざ伝えなくとも自然と聞こえていようというものだ。祝言についても、つい先程までおサキも女衆に混じって同じことで話を勝手に進めていたので言えた口ではない。
なんにしても大家だ。長屋に住む人間がひとり増えるのだから挨拶はしておくのが筋だろう。もう耳に入っているのなら、ことは早い方がいい。
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