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部屋の表に掲げた看板を眺め、身体の底からわき上がって来る満足感に浸る。
手習い指南所。大工の団吉が用意してくれた端板に墨を引きこうして表に出すとぐっとそれらしくなった。
借り物ながら、一国一城の主になったような気になる。
「おやおや、これはまた大層なお人が越してきたもんだね」
気だるい声に振り返ると、女が立っていた。
襟を撫で自然にしなをつくり、薄く微笑んでいる。
あらかじめ吉兵衛から聞いていた、隣のお妾さんだ。
たまにどこぞの大店を相手にする以外は、日がな三味線を弾いては唄をうたって過ごしているらしい。
「や、これは。なにぶん子供が集まるゆえお騒がせすることになると思うが、どうかご容赦願いたい」
「構わないさ。あたいも子供は好きだからね」
そのまま横をすり抜けて隣へ入っていく。背中に呼びかけた。
「遅れたが、あとでそばを持っていくので、どうぞ召し上がってくだされ」
微笑みだけを残して隣人は部屋の中へと姿を消した。名は確か、お京といったか。
改めて新しい住まいを眺める。指南所の看板を掲げた三軒長屋。
間取りが広くなったのはもちろん二階屋にまでなったこの場所を無償で借りる代わりに今まで以上に子供の世話をしなくてはならないだろう。そうする義務がある。
「高田様、引越しそばの手配、吉兵衛様にお願いしてまいりました」
おフサが戻ってきた。今日も朝からかいがいしく動いてくれている。
「ああ、すまない。子供たちが帰ったら今日は盛り場の方へ出てみようか。
あそこは人も多くて賑やかでいいぞ」
「はい、よろしくお願いいたします」
微笑むこの娘を誰が狐だと思うだろうか。早くもこの長屋へ馴染んでいるように感じる。
古い伝記にあるように、このままおフサと暮らしていくのも悪くはないのかもしれない。
そんな考えがよぎった。
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