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「どちら様?」
「あ、隣りに引っ越してきました芳野(ヨシノ)と言います。昼間にも一度来たんですが、いらっしゃらなかったので……」
背丈の低いその女は、浩太郎を見上げて言った。
「はぁ」
つい気怠い返事をする。
「あっ、これ、どうぞ」
そう渡されたのは、有名チェーン店のドーナツの箱だった。
「あー……わざわざどうも」
「私、引っ越しでご近所にドーナツ配るのやってみたかったんです。ほら、CMでこんな風にやってるの知ってます?」
ふわり、と花が舞うような、柔らかな笑顔。
思わずドキリとする。
「あ……ああ、そうだ、CMみたいっスね……」
「お近付きの印に、とか言いながらちょっと自己満足なんです。えと……名字はワタセさんとおっしゃるんですか?」
玄関前の“渡瀬”と書いた表札を覗きながら話す。
「あ、いや、ワタラセです。よく間違われるんだけど」
「わ、そうなんですか!絶対間違わないように覚えますね!」
女はそう言うと、浩太郎の顔を真剣そうにじっと見つめた。
おそらく、名字を頭に叩き込んでいるのだろうが。見つめられる方はその視線につい動揺する。
「あ、いや、そんな真剣に覚えなくても……」
「でも間違われるのって、嫌になりません?またかよ、みたいな。だから、私しっかり覚えておきますっ!」
細い腕をよく動かし、ジェスチャーしてみせる。コロコロと変わる豊かな表情。忙しない姿は、まるで小動物のようだ。
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