1、始マリノ鐘

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「どちら様?」 「あ、隣りに引っ越してきました芳野(ヨシノ)と言います。昼間にも一度来たんですが、いらっしゃらなかったので……」 背丈の低いその女は、浩太郎を見上げて言った。 「はぁ」 つい気怠い返事をする。 「あっ、これ、どうぞ」 そう渡されたのは、有名チェーン店のドーナツの箱だった。 「あー……わざわざどうも」 「私、引っ越しでご近所にドーナツ配るのやってみたかったんです。ほら、CMでこんな風にやってるの知ってます?」 ふわり、と花が舞うような、柔らかな笑顔。 思わずドキリとする。 「あ……ああ、そうだ、CMみたいっスね……」 「お近付きの印に、とか言いながらちょっと自己満足なんです。えと……名字はワタセさんとおっしゃるんですか?」 玄関前の“渡瀬”と書いた表札を覗きながら話す。 「あ、いや、ワタラセです。よく間違われるんだけど」 「わ、そうなんですか!絶対間違わないように覚えますね!」 女はそう言うと、浩太郎の顔を真剣そうにじっと見つめた。 おそらく、名字を頭に叩き込んでいるのだろうが。見つめられる方はその視線につい動揺する。 「あ、いや、そんな真剣に覚えなくても……」 「でも間違われるのって、嫌になりません?またかよ、みたいな。だから、私しっかり覚えておきますっ!」 細い腕をよく動かし、ジェスチャーしてみせる。コロコロと変わる豊かな表情。忙しない姿は、まるで小動物のようだ。
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