大仏騒動 (一)

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事の次第はこうだ 三条実美ら尊攘派公卿と長州藩の手引きにより、大和行幸(神武天皇陵参拝)の後 大和より天下の号令を発し幕府及び諸大名に攘夷の意志を示させるよう孝明天皇に強要した。 しかしながら孝明天皇の意志はそこには無かった 何故ならこの時、公武合体派の考えにより妹である和宮は将軍家茂に嫁いでいたのである 事が起これば妹までも討たねばならなくなる それが心苦しいのだ 中川宮朝彦親王は会津、薩摩にその旨を伝えた。 それを受けて八月十八日 薩摩藩、会津藩が御所九門を堅め中川宮朝彦親王等、公武合体派公卿を参内する。 そして宮中にて長州藩及び尊攘派公卿の処罰を協議した 長州藩は大砲を持ち出して抵抗の意志を示すが断念。 堺町御門警備を免ぜられ京より閉め出される結果となった この時三条実美ら尊攘派公卿七人も長州兵と共に都落ちした これが七卿落ちである。
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