賤ヶ岳に散る夢 ―激闘―

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『義晴の孫・源義成ヨシナリの時に領国である紀伊国から紀伊の姓を名乗り、紀伊義成と名乗っている。 紀伊家は、鎌倉時代に3代将軍源実朝が暗殺された後、朝廷から将軍職就任を促された。 しかし幕府側が、事実上の源氏嫡流であった八幡太郎義家の男系から外れていて、源姓ではなく紀伊姓を名乗っていることから相応しくないとして、拒絶した。 それであっても紀伊家は、鎌倉・室町時代を通し、朝廷、幕府、有力守護大名家からは清和源氏嫡流の現存する正式かつ正統な嫡流として一目置かれていた。 室町時代の紀伊守護・畠山氏歴代当主からも、名目上は家臣とされつつも、破格の優遇が与えられていた。 1499年の畠山家の内紛によって時の国主・畠山義豊の死後、紀伊国から畠山氏の勢力は衰退し、他の畠山家旧臣の支持を得て、紀伊国主の座に就いた。 1503年に時の当主・紀伊播磨介義光が上洛し、朝廷から従四位下紀伊守兼侍従を拝命し、室町幕府からは紀伊守護職に任じられ、正式に紀伊国の国主となった。 紀伊義光の子・紀伊晴重の代からは紀伊姓と紀伊守の官職が混同することから、紀伊家当主は近衛府のいずれかの官位を与えられるのが慣習となった』
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