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雨は、きらいだ。
「お前、何やってんの」
呆れた声がふいに背後から聞こえた。
誰かを招いた覚えは無い。まして誰かと暮らしているわけでもない。
この草臥れたワンルームのアパートの、これまた錆付いて時々軋むドアには鍵をかけた……はずだ。誰かが侵入できるはずはなかった。
けれど警戒するわけでもなく、背を向けたまま、言う。
「洗ってんの。手ェ。汚ねぇから」
無感情に平坦な声は他人のもののようだった。
調理のために使われた経験の薄いキッチンで、水を勢いよく迸らせ、その中に両手を突っ込んでひたすらこする。
病的だと思った。けれど、そうせずにはいられなかった。
背後で足音がする。近づいてきた気配は、ふいに手首を掴んで水流から引っ張りあげた。
「赤くなってる。もうやめろ」
この声の主を知っている。
ずっとずっと、隣にいた人間だ。それこそ、洟垂れのガキの頃から、ずっと。見捨てずに傍に居てくれた、唯一の人間だ。親兄弟や同級生、教師。そんなものが全部霞みたいに消えていった後に唯一残った、現実。
「分ってる。分ってる。分ってるんだよ、本当は。だけどさぁ……」
情けない声を出した瞬間に、膝が折れた。手のひらから水の雫を垂らしながら、手首を掴まれたまま、間抜けな格好で床に座り込む。痛みは、感じない。
「――……手のひらの血が、消えないんだ――……」
遠い昔。十年も前のこと。
酷く、人を傷つけたことがある。
「――血が……」
水の流れ続ける音がする。意識がそこを離れると、
雨音。
あの日から、雨は、やんでくれない――……。
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