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【徐福伝説】
徐福とは、
司馬遷の『史記』によると、秦の始皇帝(紀元前3世紀頃)に、
「東方の三神山に不老不死の霊薬がある」
と具申し、始皇帝の命を受け、財宝と共に数千人を従えて秦から東方に船出した。
到着した土地で、徐福は「平原広沢」の王となり中国には戻らなかったといわれている。
つまり、魏志倭人伝(三国志の時代、3世紀終末、280年~290年間)に中国で始めて日本が紹介されたよりも早い時代です。(卑弥呼の時代)
要は、始皇帝さんに
「日本の蓬莱山という所に、飲むと死なない薬があるならば、取りに行っちゃうよ!」
と進言した人です。
財宝と共に数千人を従えて旅立った事から、
「始皇帝さん、天下取ったら我儘で困る。暮らし難いから一族連れて逃げよう。二度と帰ってくるものか!」
と思ったのかも知れない。
日本各地に徐福伝説があります。
確認しているのは、佐賀県・福岡県・鹿児島県・三重県・和歌山県・京都府・愛知県・山梨県・宮崎県(順不同)に伝説が残っています。
地元では、名古屋の熱田神宮・愛知県宝飯郡の莵足(うたり)神社です。
莵足(うたり)神社は、実家の直ぐ近くです。
徐福一行様は、絹や綿の織物の製造の製造技術も伝えました。
その為に、この地域には「秦」「羽田」「羽田野」姓が多いです。
織物の技術のほかに、製鉄・農耕・造船等の技術も伝えたそうです。
また、「風祭り」というお祭では、スズメ12羽を生贄に捧げる行事があり、中国から伝えられたものだとされています。
この祭りの様式は、古く日本書紀にも記載されているそうです。
(祭りの形式がユダヤ式という説もあり、徐福一行はユダヤ人という人もいます。)
要するに、まだ弥生時代の日本に、先進の技術を伝えながら日本に土着した集団だったといえます。
数多く残る、伝説や墓は、それだけ多くの人たちが渡ってきた事を物語っていますね。
蓬莱山は奥三河の鳳来寺山という説や、富士山という説もあります。
三保の松原から富士五湖・富士吉田にも、徐福伝説は息づいています。
文献も残っていない時代の検証ですので、地元の言い伝えや風習・祭り・祭神などで、糸を手繰って行くしか無いのです。
しかし、太古のロマンに胸をときめかせる事は、素敵なことだと思います。
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