帰郷。

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「ここが、お前の職場が。」   地鳴りよりも低い声で言われた。     言われたような気がした。     すでに男はおしぼりを渡す手が震えていた。     ついに強行手段で連れ戻されると。         店のカウンターに父が座ると、ビールを一杯注文した。   「お前も飲め。」   仕方無くビールを二杯テーブルに、トンと置く。         とりあえず言葉は出てこない。     「楽しいか。」   カウンター越しに立つ男の方が目線が高い。 座っている父親のねめあげるような視線が痛かった。     「うん。」   それしか言えない。    「母さんと話し合った。」     グイとビールを一口。がたいのいい父親には大ジョッキが普通のコップのように見えた。     「そう。」     男もグイと一口飲んだ。     「やりたいならやっていいぞ。 ただし、体には気をつけろよ。」     「え?」     いきなりの言葉にビールの炭酸が喉の奥に引っかかった。     「母さんと話し合った。 成人したんだから、やりたいことに文句は言わない。 休学届けも出してきた。 途中で飽きたらいつでも大学に戻れよ。」     その話をわざわざしに来てくれたなんて。   鳩が豆鉄砲をくらったような瞬間だった。   しばらく何も言えない男。         「それとな。」   父親はまだ続けた。     「追い出すように見送ってごめんな。」     そう言って右手を差し出した。         仲直りの握手。 それは小さい頃から父親に怒られたり怒ったりした最後にする男と男の合図だった。     ぎゅうと力強く父の手を握る。 もう一回り大きな力で握り返してくる。     「おっきくなったな。飲むか。」     グラスとグラスを合わせた。     一枚の写真はそんな時に酔った勢いで二人で歌ったのを店の従業員がカメラにおさめてくれたものだった。   初めてのデュエット。あの歌は忘れない。         他にも姉と東京に行った写真や、家族で行ったテーマパークのパンフ、妹とハマったゲームの説明書。     続々と出てくる。     きっと男の家族は他の家族より仲がよかった。     厳格でメリハリのある父親。   気が弱いが優しくておべっかやきな母。      
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