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「ただいま」
いつものように自宅の扉を開け、神崎博人は定番の挨拶をした。だが、いつもは誰もいない。それでもなんとなくしてしまうわけだが。
「お帰り」
おや、と博人は思った。いるはずのない人物がそこにいたからだ。ロングの茶髪には櫛が見える。ちょうど梳いていたのだろう。
「今日は早いね、母さん」
今年で37になる博人の母・神崎塔子は、どう見ても二十代の顔を悲しげに歪め、
「ごめんね、ヒロくん。転勤が決まっちゃったの」
そんなことを言ってきた。
「転勤ってことは、俺も転校するのか」
どこに行くのかは知らないが、遠くに行くのだろうという事は塔子の表情から読み取った。
博人は、別にそれでも良かった。
「ごめんね。本当にごめんね」
母は申し訳なさそうに何度も謝っている。おそらく、友達と離ればなれになる事を謝っているのだろう。
「謝らなくていいよ、母さん。俺は別に気にしてないから」
「でも……」
「いいって。んじゃ、俺も荷物まとめるよ」
「ごめんね……」
母は最後にもう一度、博人に謝った。
自室に移動しながら、博人は思った。
(俺は……やっと逃げられるのか)
博人にとって、転校はマイナスなことではない。むしろプラスであると言っても過言ではないかも知れない。彼はただ、逃げたかったのだ。
自室の扉を開け放ち、夕日の眩しさに目を眇る。とりあえず、手頃なところから手をつけようと思った。
がた、がしゃがしゃん。
押し入れの戸を開けると、そんな音が聞こえた。思わずそれを見てしまう。
「……剣道、か」
転がったそれは、剣道における重要品の竹刀であった。かなり埃を被っているようで、うっすら白いものが見える。
「……捨てたんだ。俺は捨てたんだよ」
ぶつぶつと独り言を呟きながらも、竹刀を握る手は放さない。
「まだ未練があるのかよ。畜生……」
「ヒロくん。手伝おうか?」
そこで固まっていた為に気付かなかったが、背後に塔子がいた。慌てて博人は竹刀を隠した。
「だ、大丈夫。ここは俺一人でなんとかなるから、母さんは自分のやつをやっててよ」
「なによぅ。私じゃ役不足だって言うの?」
「いや、そうじゃないんだけど……」
不満そうに頬を膨らます母を、博人は苦笑して宥めることしか出来なかった。
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