とそあど

2/36
前へ
/138ページ
次へ
「ただいま」 いつものように自宅の扉を開け、神崎博人は定番の挨拶をした。だが、いつもは誰もいない。それでもなんとなくしてしまうわけだが。 「お帰り」 おや、と博人は思った。いるはずのない人物がそこにいたからだ。ロングの茶髪には櫛が見える。ちょうど梳いていたのだろう。 「今日は早いね、母さん」 今年で37になる博人の母・神崎塔子は、どう見ても二十代の顔を悲しげに歪め、 「ごめんね、ヒロくん。転勤が決まっちゃったの」 そんなことを言ってきた。 「転勤ってことは、俺も転校するのか」 どこに行くのかは知らないが、遠くに行くのだろうという事は塔子の表情から読み取った。 博人は、別にそれでも良かった。 「ごめんね。本当にごめんね」 母は申し訳なさそうに何度も謝っている。おそらく、友達と離ればなれになる事を謝っているのだろう。 「謝らなくていいよ、母さん。俺は別に気にしてないから」 「でも……」 「いいって。んじゃ、俺も荷物まとめるよ」 「ごめんね……」 母は最後にもう一度、博人に謝った。 自室に移動しながら、博人は思った。 (俺は……やっと逃げられるのか) 博人にとって、転校はマイナスなことではない。むしろプラスであると言っても過言ではないかも知れない。彼はただ、逃げたかったのだ。 自室の扉を開け放ち、夕日の眩しさに目を眇る。とりあえず、手頃なところから手をつけようと思った。 がた、がしゃがしゃん。 押し入れの戸を開けると、そんな音が聞こえた。思わずそれを見てしまう。 「……剣道、か」 転がったそれは、剣道における重要品の竹刀であった。かなり埃を被っているようで、うっすら白いものが見える。 「……捨てたんだ。俺は捨てたんだよ」 ぶつぶつと独り言を呟きながらも、竹刀を握る手は放さない。 「まだ未練があるのかよ。畜生……」 「ヒロくん。手伝おうか?」 そこで固まっていた為に気付かなかったが、背後に塔子がいた。慌てて博人は竹刀を隠した。 「だ、大丈夫。ここは俺一人でなんとかなるから、母さんは自分のやつをやっててよ」 「なによぅ。私じゃ役不足だって言うの?」 「いや、そうじゃないんだけど……」 不満そうに頬を膨らます母を、博人は苦笑して宥めることしか出来なかった。
/138ページ

最初のコメントを投稿しよう!

40人が本棚に入れています
本棚に追加