消えぬ匂い

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 その声からは紫丞の優しさとは違い、厳しさも感じ取れる。 「市川さん! いつからそこに? 聞いていたんですか?」  突然の声に驚いたのであろ。玄達は勢いよく振り返り、目を見開いていた。 「最初からいたんだよ。気付かなかったか? それより……玄達、何故お前が行かない?」  市川と呼ばれた男は鋭い瞳を玄達に向け、その口調も厳しい。  名は市川楓(いちかわかえで)。玄達と同じ黒い髪ではあるが、それほど長いわけではない。年は三十を越えた程であろうか。まさに今が男しての絶頂と言える時期であろう。その言動にも迫力を感じさせる。 「聞いていたのならわかるでしょう。俺が行けば、またもめるからですよ」 「そんな建前の言い訳を聞いているんじゃない。綾の気持ちには気付いているんだろ? なのに、何故お前が行かない?」  玄達の答えを聞いた楓は、先程紫丞が言いかけた言葉を真っ直ぐにぶつけてきた。 「わかっています。綾の気持ちに気付かないほど間抜けではありません。ただ、俺は綾の気持ちには応えられません。いや……応えるわけにはいきません」
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