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大和型戦艦の建造の第一歩は後に大和の艦長になり卓越した操艦を見せる町田千秋中佐(当時)だった。
昭和八年(一九三三年)に、当時軍令部作戦課員だった町田中佐は軍令部第一部長だった島田繁太郎小将(当時)に軍縮期限が切れる昭和二年(一九三六年)十二月三十一日以降から、建造するべき新型戦艦の性能について研究した上申書を提出している。
当時軍縮時代の世界最強戦艦は七隻存在し、その七隻は「ビッグセブン」と呼ばれていた。内訳は、
大日本帝国
戦艦、「長門」「陸奥」
アメリカ合衆国
戦艦、「コロラド」「メリーランド」「ウエスト・バージニア」
イギリス
戦艦、「ネルソン」「ロドニー」
である。
このビッグセブンは四〇センチから四一センチ(長門、陸奥)の主砲口径であったが町田中佐の上申書ではこのビッグセブンよりふたまわりも大きな四六センチ砲を搭載すべきであると結論づけていた。
何故か?
理由はいくつかある。
当時のアメリカ海軍は太平洋と大西洋の両洋作戦を前提としており、それにはパナマ運河通過が必須条件だった。
ところが運河の幅は一一〇フィート(約三三メートル)でそれを越えると通過出来なかった。
戦艦の主砲を四六センチ以上にしてしまうと艦幅が長くなり、とても三三メートルでは通過出来ない。
そのためアメリカ海軍は四六センチの主砲を搭載した戦艦を建造することが出来ない。(モンタナ級ではパナマ運河通過を諦めていた。が建造されていない。)
軍縮条約が切れればアメリカ、イギリス共に新戦艦の建造をするだろうことは明らかだった。
アメリカ、イギリスとの建艦競争をしようものなら経済力の差で太刀打ち出来ない。
そこで町田中佐は艦の質で量を補おうと考えた。(これを「個艦優秀主義」と言う)
アメリカには保有出来ない巨大戦艦を建造することは日本海軍の戦略構想ともあっていた。
かくして町田中佐の上申書を受けた軍令部で、昭和九年に入り四六センチ砲搭載戦艦の研究を艦政本部に指示。
ここに戦艦大和建造の初期段階、「A-140計画」がスタートした。
ちなみにAは戦艦を表し、140は日本海軍にとって140番目の戦艦建造計画であったことを表している。
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