建造と竣工

2/4
35人が本棚に入れています
本棚に追加
/15ページ
昭和十五年(一九四〇年)八月八日、大和は極秘のうちに進水式を迎える。 船体の完成に約三年をようした「一号艦」は進水式の時点で初めて『大和』と命名される。 この時の大和は船体は完成していたものの、まだ艦橋や主砲塔などの上部構造物は完成していなかった。 大和は巨艦であり進水させるだけで難事業である。 船体完成の時点で艦尾方向に四五〇〇トンの重量の偏りが認められていたので艦内の注水区画に三〇〇〇トンの海水を引き込み、水平を保った状態でドック内に海水が注ぎ込まれる。 ドックへの注水を初めて一時間後に大和は浮揚した。 この時、大和の左右の幅とドックの横幅との差は三メートルにも満たなかったので、浮上の段階でドックの横壁に衝突する事故が懸念されたが、大和は無事に事故もなく進水することができたのだ。 大和が浮揚した段階で進水式の行事が執り行われたが、従来の戦艦の進水式と違い華やかなものではなかった。 軍楽隊の演奏や一般市民の参列もなく、海軍大臣の吉田善吾大将も機密をまもるため参列せづ、代理として呉鎮守府司令長官の日比野正治中将が命名書を読み上げた。 進水式が終わると、大和は残りの艤装工事を行うため呉海軍工廠内のポンツーンへと移動するが、この時点で大和は自力航行することはできない。 そのため、まづ艦尾方向へ三隻の曳航船で海上へと曳航する。 さらに二隻が艦首方向から接触して推し進める。 これら五隻の曳航船によって大和はポンツーンへと運ばれた。 大和は特別に設置されたポンツーンで擬装工事にはいった。
/15ページ

最初のコメントを投稿しよう!