桜の樹の下で

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  四月、都内某所。 近年の桜は早咲きだというのに、この高校の桜だけは何故か四月を過ぎて咲き始めた。 そしてちょうど、彼女の始業式に満開を迎えたのである。 今日は陽射しが特に眩しい。 マンションの一室で、兄である裕一は、レースカーテンの隙間から入る朝日に目を細めた。 「……あいつ、まだ起きないのか」 彼は珈琲を片手に新聞を広げ、その右上の日付に溜息を漏らす。 今日は妹の入学式だ。 入学式といっても、中学からのエスカレーター式なのだから、学年だけでなく学部も変わる。先日卒業を済ませ、晴れて今日から高校生だ。 早いものだ。 そして一人、思いを馳せた。 彼女が生まれてからの二人の出来事を。 雅(みやび)は、何かと災難に遭いやすいたちだった。二ヶ月にして風呂場で親父と共に転倒し、一歳でエスカレーターに吸い込まれ、三歳では玉突き事故に巻き込まれ瀕死の重傷を負い、五歳で野球ボールが眼球に当たり、七歳では階段から転がり落ち、十歳では―― 「おはよ」 不意に声をかけられ、心臓がひどく強張った。驚いたが、持ち前の精神で堪えたに違いない。 「ああ、おはよう雅。」 普通、環境が変わるときは少なからず緊張が走るものだが、彼女からはそんなことは微塵も感じられない。 いつもどおり長い髪を二つに結い、桃色のグロスで艶を出し、スカートは短く髪は茶色く―― 「じゃ、いってきま」 「……って、おい、雅。」 「いや、あたし忙しいんで!」 おかまいなく!と言って何の気兼ねなしに出掛けようとする雅の頭を、裕一はわしづかみにした。 背の高い彼にとっては、小さな妹の確保などたやすいことだ。 「ちょっと、放してよ!」 「おまえ、なんだその派手な化粧!髪の色!スカート!俺は絶対許さんぞ」 「うるさーい!」 「うるさくない。誰が学費払ってると思ってるんだ」 「パパの遺族保険でしょ!?お兄ちゃんには関係ないじゃんよ!」 「関係ある。おまえをそんな恰好させて好き勝手させてるわけじゃない、だいたいおまえはいつも俺の言うことを聞かんが俺が身を粉にして巡査として日々働いてだな勉強してそれに飯も作っておまえの臭い靴下を洗って小遣いもやってるというのにいつもいつも無駄遣いばかりして金が足りないだの部活にも入らないで家でだらだら暮らし」  
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