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ふと、自分の死を考えます。
“僕が死んだら、何人が泣いてくれるんだろう”
死に涙する人の多さがその人の価値なら、僕のこのちっぽけな生命には、どれだけの価値があるのだろう。
僕の“些細な”死は、どれだけの涙を誘えるのだろう。
――知るか。そんなこと、まだ考えるには若すぎる。
ただ、多いほうが嬉しいけど、多いほうがつらいよね。
死とは日常です。いつも傍にあるべき、日常の断片です。
それは決して非日常ではなく、日常の中に織り込まれている、想定のひとつです。
それは、日常にこそ幸せが宿るのと、全くの同義です。
彼女は亡くなり、僕は夢への意志を固め、仕事仲間は妊娠し、同僚は入籍予定です。
祝うことと同じように、死は訪れます。
或いは、日常こそが、幻なのかもしれません。
日常などなく、この日常こそが幻ならば、なるほど、死は、偶々この時点に訪れたひとつのきっかけです。
妊娠を歓び、入籍予定を歓び、それと“全く同じように”死を悲しむべきなのかもしれません。
けれど、だとしても。
悲しいものは悲しいし、寂しいものは寂しいよね。
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