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このタイミングで、祖父が亡くなりました。
手術から一段落し、退院の相談をしていた矢先のことでした。
祖父に触れました。
それは、熱が逃げただけのものではありませんでした。
ぬくもりが冷めた躰から、生きてきた残滓だけが、静かに抜け落ちていくのを感じました。
静かに静かに、死がはっきりとしていく。
静かに静かに、“思い出”が殖えていく。
それを止めることはできなくて、“温かな”躰をドライアイスで冷やして、腐敗を抑えました。
僕が遊んでいるときに、祖父は誰に看取られることもなく、静かにその生を閉じました。
あぁ、どうして。
深くて昏くて重い何かが胸や頭や背なに宿っているように感じます。
何も。何もです。“また何もできなかった”
慢るなかれ、僕には何もできない。
けれどそれでも、友人として、孫として、何かなかったのか。
そう考えはじめると、思考はただそのことばかり。
まるでメビウスの輪。脱線するから、むしろクラインの壺か。なんでもいいや。
確かなことは、それに答えは永久にないということ。
あの人は、もういない。
球体関節人形のように、どこまでも美しく、似せても、愛玩人形は愛玩人形です。
動かし、腹話し、或いは眺め、しかしそれは生きてはいない。
思い出とは、生きているからこそ生まれる。
異質のなかで生きないかぎり、それらは同一にはならない。
ハイゼンベルグの言葉にあるように、僕らは本当の意味では、死を理解していません。
死をどう捉えるかによって、死そのものへのアプローチが変わっていく。
なら、どうすればいいのか。
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