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コラム考察 (2018年5月)
過去のデータを整理している時に、新聞に掲載されたコラムを見つけた。
「私は書き続ける」
だがしかし、いつしか執筆をすることから離れていた時期もあった。
何を書いても、砂を噛むようなものしか書けなくなった。否、書けなくなったのではない。最初から書けていなかったのだ。私は自分の技量の限界を感じていた。
私の書いたものには深みがない。人の心の髄というものが、描ききれていない。表現は若干豊かであっても、中身がスカスカなのだ。
それは「平面的」という言葉が似合いなのかもしれない。たとえば広大な用紙に描かれた遊園地の絵のようだ。見た瞬間は子どもたちの目は輝くが、いざ遊ぼうとしてもそれは絵なのだから平らなまま。凹凸はもちろんのこと、何の体感も得られない。心の3次元空間を描けない物語は、そんな虚しさと退屈さに似ている。
それに気付いたとき、私は執筆の手を止めた。
元々言葉で表現をするのが好きだった私は、「書きたい」という欲望が消滅することはなかった。
「心を描く」
次に挑戦したのは、詩を綴ることだった。ただ感情に任せて詩に吐き出していた頃は、独りよがりでしかなかった。それにその想いが消えたとき、描く言葉も失った。
それならばいっそのこと、自身の想いではなく、空想上であれ描いたシチュエーションの心情を掘り下げて、作品として割り切って生み出そうと考えたのが、現在公開している写真詩である。
ただ写真詩も、順風満帆に書き続けられていたわけではない。空白の期間もかなりあった。
「病んでいなければ、言葉は綴れない」
そんな話を、交流があった人から聞いたことがある。以前の空白の期間は、まさにそのものだった。
「作品として割り切る」
と言いつつも、「心を描く」ことが根底にあるのだから、病んではいないにしろ、当然心の機微を映し出していた。
嫌悪しかなかった環境からやっと離れ、新しい環境の状況も生活も落ち着いた時、私はまた言葉を失った。いわゆる「幸せボケ」というものだろう。
心模様には波がある。言葉の波が押し寄せてきた時に、またそれに乗ることができれば、緩やかなペースであってもこの先も綴り続けてゆける。そう強く願っている。
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