麗しの君へ

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実はね、何もないんだ。 少なくとも、たぶん君が推測していただろう種類の不幸な出来事なんて、何も起こらなかった。 僕はごく普通の、平凡な家庭の次男として、生まれ育った。 両親は不仲なんかじゃなかったし、社会人としても家庭人としても、至極まっとうなひとたちだった。 小さな庭付きの一戸建てに住み、犬を飼い、好きな花なんかを植えて、家のローンを払いながら、時には僕たち兄弟の教育費のことなんかで頭を痛めたこともあったかもしれないけれど、日々をまっとうすることに満足そうだったよ。 それはたぶん、僕の思い違いなんかじゃなくて、彼らは本当に、過不足なくまずまず幸福に暮らしていたんだろう。 僕も、よそのどんな子どもたちにも劣らない、平和な子ども時代を送らせてもらったよ。 兄もやさしいひとだった。 勉強は僕のほうができてね、それを自慢に思ってくれるような、いい兄だった。 ああ、飼っていた犬だけれど、あれだけは僕にあまり懐かなかったな。 きっと、動物には本能か直感か、人間にはない能力があって、僕の匂いを嗅ぎ分けたんだろう。 どんな匂いか、僕自身にだってわかりゃしないんだけれど、それはきっと、得体のしれない、あまり近寄ってはいけないと点滅する、危険信号のようなものだったのかもしれない。
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