第7章の3

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男はひどく困惑した様子で、土下座してすがりついてくる老女の顔を、腰をかがめて無理矢理に上げさせた。 「やめて下さい、このようなことは…」 闇夜に紛れた男の姿は、まるで老女の落とした影のようだった。 遠目に見ても分かる。 老女はひどく泣いていた。 お願いします、お願いしますと、目の前の、素性もようとは知れぬ怪しげな男に懇願した。 しかし男は何も言わない。 ただとても残念そうに、首を振ってみせただけ。 それもたったの一度…。 「何を躊躇ってるんだ」と、私の隣に立っていた若者が言った。 「くれてやれよ、そんなもの。 一度死んだ人間ですら、生き返らせることができるような、奇跡の力を持っているなら、病気の人間ぐらい簡単に治せる筈さ」と。 例の司祭服に身を包んだ男が、その声にハッとしたようにこちらをかえりみた。 振り返った男の目は、今まで私が見たことの無い程に驚きの色をしていた。 私は、あの時の彼の反応だけは、絶対に芝居ではなかったと今でも確信している。 「何故…?」 と、呟くように言葉を発したのは、昨夜まで私が“ペテン師”と信じて疑わなかった男…。 エドワード・フェニックス、その人だった。 修道院の中で見た時の印象と比べ、今夜の彼はなんだかとても人間くさかった。 我々の姿を見つけて、ひどく隙をつくってみせたからそう思うのかもしれない。 あの異様な蝋燭の炎が、そこに揺らめいていないからかもしれないし、あるいはいつも、金持ちの中心に居る人物が、こんな寂しい場所に居ることの不思議さがそう思わせるのか…よく分からなかったが、ただ闇夜に浮かび上がったその細面だけがいつになく青白く感じられて、私はまるでこの男の方が病人のようだと思った。 エドワードは、老女に聖水を分け与えるのだろうか…? もしもこの男に、本当に何ひとつ曇りが無いというなら、そうしないわけがない。 しかし、それなら何故、ギルバートの言う通り、今こうしてそれを躊躇うのか。 「お願いします、司祭様。この通り、この通りですよ…」 老女はなおもその額を、これ以上ないくらい地面にこすりつけた。 痛々しい程に切迫したその姿を目の当たりにしても、男はひどく狼狽しているだけで、ガラスの小瓶が出てくることはない。 「やってしまえ」と、再び若き弁護士が言った。 見事な程に淡白な口調だった。それはせめてもの強がりのように。
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