第1章の1

1/2
前へ
/84ページ
次へ

第1章の1

私の部屋の真向かいに、少しばかり変わった男が住んでいる。 この日も私は、残業を終え、夜遅くに自宅のあるアパートに帰宅した。疲れた身体をおして、4階までの階段をやっとのことでのぼり終え、ようやく我が部屋のドアノブに手を伸ばした時、「やぁ、お帰り警部さん」と背中に声が掛かった。 しぶしぶながら振り返った私の目線の先で、例の男が笑っている。私が今し方、必死の思いで上がってきた階段を挟んで、丁度反対側の部屋の扉を開け放して、彼はそこに立っていた。 「…こんばんはギルバート。何か用かい?」 私のは、思いっきり愛想笑いだった。とても嫌な予感が押し寄せていた。 「これ食うかい?」目の前の若い男…もとい、ギルバート・ライアンは、飄々とした口調で、大きな一枚皿の上に乗っかった正体不明の黒い塊を私に見せてきた。 な…何だあれは? あまり視力の良くない私は、目を細くして恐る恐るその正体を探った。何だかとても歪な形をしている。全体からもうもうと煙が上がっており、ところどころブスブスと音を立てているようだ。 「な…何なんだそれは?」と尋ねる私に、「鶏の丸焼きさ。見れば分かるだろ?」と、相手は相変わらずの口調で答える。 それを…? まされを食えというのか、私に? 最早それは好意なのか? それともこの男は、私に何か恨みでもあるのだろうか…? 私の顔から愛想笑いが消え、最早自分でもそうと分かる程に引きつっていた。 「見ても分からんから尋ねとるんだろうが…。悪いがギルバート、私は酷く疲れた。君の気持ちはありがたいが、もう今から飯を食おうか、という気にすらならん。頼むからそっとしておいてくれ…」 私はやんわり断りを入れると、素早く自室の鍵を開けて中に逃げ込んだ。 「これだから中年男の1人暮らしはいけないね。疲れた時こそ栄養つけなけりゃ、死ぬぜ警部さんよ」 廊下の向こうから、ギルバートが大袈裟に肩をすくめてそう言ったのが聞こえた。しかし、今日ばかりはそれ以上相手にすることなく私は扉を閉める。 こんな夜中に、あんな得体の知れない物を食べさせられた方がよっぽど死ぬ。
/84ページ

最初のコメントを投稿しよう!

107人が本棚に入れています
本棚に追加