第7章の1

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第7章の1

脱兎の如く修道院を飛び出し、アパートへ戻ったギルバートは、血の付いた衣服を全て脱ぎ捨てて、身体中を布きれで拭った。 そして身体の隅から隅まで、血眼になってある筈のものを探していた。 「傷がない、傷がない、傷がない、ないないないない!どこにもない! 刺されたのに…絶対刺しやがったのに、あの野郎…! なんでだ、なんで傷がどこにも無い!?」 挙げ句の果てには、慌てて洗面所に駆け込んで、嘔吐する始末。 若者は完全にパニックに陥っていた。 私は裸になった彼の背中に、部屋の中から探し当てたブランケットを羽織らせ、その背中をさすってやった。 「落ち着け、ギルバート。落ち着くんだ、お前らしくもない!」 そうは言ったが、私とて、もはやパニック寸前だった。 この世に“奇跡”なんてないと、あのエドワード・フェニックスという男はただのペテン師だと、さっきこのアパートを出た時まで頑なに信じていたのに…。 それでは先刻目の前で起こったことは、一体何だったのかと、心の中の自分が私に尋ねてくる。 もはや何を信じればいいのか、私とて分からなくなっていた。 胃の中のものを全て出し終えたギルバートを、私は無理矢理引きずってきて、キッチンの丸テーブルに座らせ、コップ一杯の水を与えた。 勢いよくその水を飲み終えたギルバートは、顔面蒼白だった。 今の彼に、いつもの余裕など微塵も無かった。 「ギルバート、よく思い出せ。一体何が起こったんだ?あの男は、本当にお前の身体を、あの短剣で刺したのか?」と、私は出来る限り落ち着いた調子で尋ねた。 「刺したんじゃなかったら、一体どこからあんなに血が湧いて出てくるんだよ!」 当たり前なことを聞くな、と言わんばかりに若者は怒鳴った。 それは確かにその通りなのだが…。 ギルバートは、椅子の上で、両膝を抱えた格好のまま、ガタガタと震え出した。 「…なぁ、警部。 刺された後のこと、俺何にも覚えてないんだよ…。 俺、死んだのか…?なぁ、俺本当に、し…死んだのかよ…?」 “死んだ”…? この若者は、本当に一度“死んだ”のだろうか…? 確かに私は、彼の脈が止まったのを、実際に確認したわけではなかった。 しかしあの状況では、生きていたとしても、放っておけば確実に死んでいただろう。 医者にも診せないで、ここでこうして話をしていられるわけがない。
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