第7章の3

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第7章の3

特に、さぁ何処へ連れて行ってやろうというプランもなかったが、ギルバートと連れ立ってアパートを出ると、自然と足は行き着けの店へと向いた。 そこは、私が手掛けた過去の事件がきっかけで知り合った店主がやっている、小さな飲食店だった。 洒落た店とは程遠かったが、料理の味は、それなりにどれも美味かったし、何より苦労人で、気構えの良いそこの店主の気質が気に入って、私は時々その店に顔を出していたわけだ。 ガス灯の揺らめく大通りを抜けて、外れの街へと、15分程歩いたところで若者が言った。 「スラム街…?こんな所に来るんだ、警部」 正式には、そこはまだ貧民街に該当する地区ではなかったが、それに近しい粗野な雰囲気の場所であった。 その証拠に、酔っ払いがそこら中に居て、その内の何人かは、我々が“金持ち”の部類に入る人間とみて、あからさまに卑しい目つきでこちらをねめつけている。 「司祭様…。お願い致しますよ」 その時、しわがれた声が通りの先から聞こえてきた。 「お水を分けて下さい…少しでいいんですよ。 このままでは、息子が死んじまいます…」 白髪の、老女らしき者が、貧しい身なりで全身黒服の男に物を乞うていた。 老女に声を掛けられた、黒いコートに身を包んだ黒服の男は、大変、この場にそぐわない程に穏やかな声音で答える。 「私を待っておられたのですか?こんなところで何時間も?」 “こんなところ”と、男が口にした通り、老女の居たそこは、近隣の飲食店のゴミ捨て場のような路地裏だった。 老女は、全身黒ずくめの男に向かって、まさに縋るような口調で言った。 「たった1人だった働き手の息子が、遂に過労で倒れてしまったのです。 医者へ連れて行くにも、私共にはお金がありませんで、息子の病は日に日に重くなるばかり…。 もうどうしたらいいか、頭を抱えている時に、司祭様のお噂を耳にしたのです。 司祭様は、大変ありがたいお水を生み出す力を持っておいでで、それを口にすれば、どんな病もたちどころに治ってしまうという…。 私共にはお金がありません…ですがお代金は、病気が治ったら、必ず働いて返しますから、だからどうか、そのありがたいお水を、この老人めにお恵み下さいませんか…」 老女は、その頭を地面にこすりつけて、男の足元にひれ伏した。
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