第8章の2

2/3
前へ
/84ページ
次へ
「警部さん。あの若いの、今朝方出て行ったよ?知らなかったのかい?」と。 私は一瞬、彼女が何を言っているのかさっぱり理解できなかった。 “出て行った”…? ギルバートが…? 「で…出て行ったって、このアパートから引っ越したってことですか? 何処へ行ったんです?」 主婦は首を傾げて言った。 「さぁ、知らないねぇ。私も今朝、たまたま彼に会ってそのこと知っただけだから。 ちょっと大きめの荷物抱えててさ、“旅行にでも行くのかい?”って尋ねたら、このアパートを出てくんだって言うじゃないか。 突然だったからびっくりしたよ。 警部さん、あの子と親しいみたいだったのに、全然知らなかったんだね」 主婦は本当に意外そうな口振りだった。 私は彼女の言うことが信じられなかった。 そうすべきではないと分かりつつ、本当かどうか確かめたくて、私はギルバートの部屋のドアノブを回した。 扉は無抵抗に、キィと音をたてて開いた。 私は中に足を踏み入れた。 いつもなら、真っ先に目に入ってきた筈の、あの若者の姿が、今日は本当に何処にもなかった。 そこにはただ、例の無味乾燥な部屋がいつも通りに広がっていただけ。 ギルバートが居ないということ以外、本当にその部屋はいつも通りだった。 私はキッチンを覗いてみてハッとした。 丸テーブルの上に、ここが無人の部屋とは思えぬ程、豪華で美味そうな料理が並んでいる。 そしてその隣には、1枚のカードが添えられてあった。 私は思わずそれを手に取る。 何故なら、そこには私の名前がしたためられていたから…。 《お帰り、警部。お疲れ様。 新しい仕事の依頼が入ったので、俺は急遽ここを出て行くことにします。 夕食を作っといたので、気付いた時にまだ腐ってなかったら食べて下さい。 P.S.世話んなったね。さようなら》 ただそれだけの文章である。 わざとなのか忘れたのか、連絡先ひとつ書いてはいなかった。 大体この料理は一体何なのだ? これをあの若者が作ったというなら、今までの“あれ”は一体何だったというのか…。 私は腹が立つのを通り越して、なんだか無性に悲しくなってきた。 『警部、俺が居なくなったらどうするの』と、いつかあの若者が言った言葉が不意に脳裏に蘇ってきた。 ああそうか、ギルバートはこの都会に、あのペテン師を追ってやって来たのだったな。
/84ページ

最初のコメントを投稿しよう!

107人が本棚に入れています
本棚に追加