砂に泳ぐ魚

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こんなふうに、夕美がふらっと自分の人生からいなくなってしまってくれたら。 男はかつて、自分がそう考えていたこともあったと思い出していた。 別の女との結婚式の日取りが決まった頃だったろうか。 夕美にそれを告げる時、絶対泣かれると思い、なかなか切り出せなかった。 しかし夕美は笑った。 取り乱すどころか涙のひとつも見せず、おめでとうと言って笑ってくれた。 それ以前から、家庭を持って落ち着きたいとこぼしていた男だったから、夕美は笑ってくれたのだろう。 身勝手と知りながら、しかし男は、夕美が泣き喚いてくれたほうがよかったと思った。 笑顔で祝福の言葉を口にしながら、じっと自分を見つめてくる、夕美の澄んだ瞳が恐ろしかった。 夕美という女が、よくわからなかった。 わかった気になっていただけで、きっとあの頃も今も、何もわかっていないのかもしれない。 しかし、夕美がふらっといなくなってくれたら、と考えたのはその一時期だけで、 それ以外は、今も、男にとって夕美は失いたくない女だった。
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