砂に泳ぐ魚

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夕美のそばにいると安らぐ。 夕美には拒絶や拒否というものがない。 どこまでも受容してくれる。 男のどんな我儘や身勝手にも、やさしく応えてくれる。 頑固なのは、男と別れたくないという一点においてだけであり、 男が別れを持ち出さないかぎり微笑みを絶やさない。 男の気分や機嫌に敏感で、その時時によって柔軟に、また辛抱強く対応する。 男がこれまで付き合ってきた女に、そのようなタイプはいなかったから、 男にとって、夕美の愛し方というのは驚異であり、安堵であり、 しかし常に不安がつきまとった。 何に対する不安なのか、男自身にもわからない。 ほとんど無償と言ってもいい夕美の愛情の見えない重さから来る負担、かもしれない。 男が夕美を失いたくないのも事実だが、男が夕美を愛していないことも、また事実だった。 男はそして、妻をも愛していない。 夕美はそのふたつを同時に理解している。 男が誰のことも愛さない人間だと、出会って早々に見抜いてしまった。 夕美に見抜かれたことを、男も承知している。 愛情表現の言葉を男が使うたび、夕美はその澄んだ瞳でじっと男を見つめ、わずかに笑む。 心からの笑顔は見せない。
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