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自室を飛び出した夕美の一部は、はるか上空、朝靄のなか、風に身をまかせていた。
何もかも忘れ去るほどの快さだった。
重力から、肉体から解放されるとは、こんなにも心地よいのかと、夕美は空恐ろしいほどの多幸感のなかで思う。
空気が清々しい。
雲の湿り気さえ、ぞくっとするほどの快感だった。
何より、夕美にとっては光の粒子ととけ合えることが素晴らしかった。
世界が美しい。
まじりけない気持ちで、そう言える。
意識だけの存在として自由を存分に味わうと、夕美はふと、これは死というものだろうか、と考える。
夕美はずっと幼い頃から、魂というものをぼんやりとだが信じていた。
頭でも心臓でもないところに宿った、心とも違う何か。
死後も残る何か。
心霊現象に興味を持ったことはなかったし、人間が死後もこの世に干渉できると考えたこともなかったが、魂という何かは信じていた。
今がその状態なのだろうか。
確かめる術はない。
まあ、いい。
夕美は深く追究することをあっさり放棄する。
肉体に宿っていた時では考えられないことだ。
夕美はかつて、何事も考えすぎる傾向にあった。
他人よりも少し余分なことにまで、頭を悩ませていた。
しかし今は、それも思い出せない。
夕美はわずかに、引っかかりのようなものを感じる。
確かに何か、夜も眠れないほど、食事が喉をとおらないほど思い悩んだことがあったはずなのに。
身を切られるような痛みに、晒されていたことがあったはずなのに。
今、身をゆだねている風が視覚化できないように、知覚することができない。
風が変わる。
夕美ははるか上空から、突風に乗って地上へと戻っていく。
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