砂に泳ぐ魚

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出会った頃よりも肉付きがよくなった男の体を、夕美はさまざまな角度から見つめた。 八年前は薄く頼りなくさえ感じられた肩や背中。 中年太りとまではいかないものの、腹にも肉がついた。 男が太り始めたのは、結婚してからだったような気がした。 夕美はふと、結婚というものに一種の憎しみを抱く。 バスルームへと向かう男の足元で、砂が舞う。 男がシャワーを使うと、男の体に張り付いていた夕美の一部は、お湯とともに排水管へと流されていく。 夕美は逆らうことなく流れに乗って、真っ暗な道を進んでいく。 男は体を洗い流すと、水滴をしたたらせながらバスルームを出、まるで我が家にいるかのように手慣れた仕種でバスローブを羽織った。 男の髪の奥に残された夕美のカケラは、男とともに空っぽの部屋へと戻る。 男は湿った素足にスリッパを引っかけ、床の砂から身を守る。 奇妙な目つきで降り積もった砂を眺め遣り、部屋を横切ると、ベランダへつづくガラス戸を開けた。 風が吹き込む。 砂が舞う。 部屋じゅうに散らばった夕美はふわりと舞い上がり、外へと飛び出す。 必死に働き守ってきたアパートにも、男にさえも何の未練も感じなかった。 自由! 自由になれる! 砂になった我が身が、今では愛おしかった。 風に吹かれ、どこまででも飛んでいける。 重い肉体という殻から自由になると、夕美は男への執着をあっさり失っていた。 男をひとり残していくことに、男を自分から捨てていくことに、爽快感さえ味わっていた。 男がベランダのガラス戸を開け放つと同時に、夕美は、西へ東へ南へ北へ、一気に旅立った。
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