─第一章─

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  丙と言えば、かの有名な剣豪『氷雨』の一番弟子で有名な侍だ。 一年以上も前に城下町を去り、以来行方をくらませていた氷雨とその関係者。 その知らせはあっと言う間に町全体に広まった。 「あっちゃー…。失敗したかなぁ…?」 長い髪を高い位置で結んだ頭をがしがし掻いて、丙はしばし思案する。 ───『氷雨』。 男は名高い剣豪でありながら、決して人を殺さなかった。 誰よりも命の尊さを知る彼は、一年と半年ほど前、城下町を騒がせていた『辻斬り』を行っていた。 ───そう、たった一人の最愛の妹・おみよを守る為。 幕府が反・幕府軍の攻撃を恐れ、氷雨に辻斬りと称して彼らを殺させた。 ───たった一人の肉親を人質にして。 勿論氷雨は悩んだだろう。 今までやらぬと決めてきた誓いと、最愛の妹の命。 釣り合わぬ天秤に二つをかけ、彼はどんなに、苦しかったろうか。 結果、彼は辻斬りの道を選んだのだ。 一日一日ごとに増えていく罪無き命の重さ。 耐え切れなくて、彼は助けを求めたのだ。 たった一人、自分が弟子にした男───丙を。 『お前にその、覚悟はあるか?』 凛とした口調。 真っ直ぐな瞳。 女忍者・風音が言ったあの言葉は、時を置いた今でも丙の耳に残っていた。 結局、最後の最後まで気付くことは無かった。 ───否。拒否していたのだ。 受け入れ難いその真実を、自分でも知らぬ内に脳が、心が拒否していた。 それでも無情にも現実を突き付けられて。 丙は身の内の『何か』が壊れるのを感じた。 ───そして。 「ひ、さめ……さん…?」 気付いた時には、目の前にくずおれる我が師匠・氷雨と、右手に握った血糊のついた細身の刀。 その後のことは、実はあまりよく覚えていない。 ただ、芯の強い瞳に射ぬかれ、力強く優しい腕に支えられて。  
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